お盆恒例、数十キロの道のりを、ママチャリで、墓参りに行くために、
午前3時に家を出る前に、ネットニュースをチラっとみたら、ある人の訃報を知る。
とりあえず、家は出なければならない。ただ、目的地についても、時間が空くので、
(墓じまいをして、移転し、現在、お寺のビル内に永代供養してるので、朝10時まで待つ必要がある)
何か、一冊、本を持っていこうと思い、これを選んだ。
墓参り、訃報、この本。
「すべての人の死因は生まれたことである」 池田晶子 (新潮新書)
“死生観”に関しては、結論が出ないし、
(”誰も死んだことが無い以上、極私的でしかありえない”という一点においてだけで、深く考えてはいないのだが)
言葉遊びになりがちなので、近づかないようにしていて、
なおかつ、著者が亡くなった後の選集は、著者の意図とは違う編集をされることが多い気がするので、
これまた、近づかないのだけれど、
どうにも気になったので、この本を買うために、本屋に行った。
これだけ”死”について考え、
「このまま、六十、七十の歳を迎えるものなら、どのような思索の深みに遊べるものか、ワクワクするところがある」
「もし順当に生きるとすれば、私もあと数十年はあるわけである。」
と書いていた著者が、
あと数年で、癌で死んでしまうことを、知っている立ち位置から読むことの凄みは、
死ぬことについて思考放棄しているわたくしをもってしても、
“死”の意味を、真正面から考えざるを得ず。
(文豪は、ほぼ亡くなっているのだから、同じことなのだが、やはり同時代の人として)
ただ、著者は、2007年に亡くなっていて、
この新書は、2007年までの、週刊誌の連載をまとめた文章なので、
「死ぬということは、人が物事を本質的に考えはじめる絶好のチャンスなのである」という著者が、
どの段階で、病気を告知され、実際の”死”を意識し、
それで、どう考え方が変わったのか、変わらなかったのか、
そして、どういう結論を至ったのか、
(「死とは、それについてひとりで考えるものであって、他人に見せるものではないのである」
と考えている著者だし、連載の日付から察するに、亡くなる直前まで、まったく変わってないのもわかるが)
具体的な”自分の死”を、いつ意識したのか、下衆の勘繰りだが、知りたいところではあった。
「死」が、極私的であったとしても、それについて、考えに考え抜いた人は、
死を前にしても変わらずにいられる、と分かれば、どれだけ支えになるか。
ただ、救うのは、哲学者ではなく、宗教家の役目なのかね。
「もし自分の人生を、納得して全うしたいと思うのなら、遅かれ早かれ、どこかで人は覚悟を決めなければならないのである」 (2026/08/24 (月) 18:15)